スケベであることは非難に値するか?

 スケベであること、またはスケベな人は通常好ましくない属性または人と考えられている。社会的地位のある人がスケベであることを積極的に示すことは地位からの転落につながりかねない。しかし、スケベであることに非難される合理的な理由があるだろうか?
 まずスケベなヘテロセクシャルの男性の定義を試みよう。かかる男性は、女性への性的好奇心が旺盛な男性である。したがって、隙あれば女性の下着を見たり、女性と性的な関係を持とうとする。
 では、なぜかかる男性が非難されるのか? 社会的には、一夫一婦制を危うくするからであると考えられる。不特定多数と性的関係を持とうとすることは、一夫一婦制の社会では反社会的な行為である。また、恋愛の観点からも非難されるだろう。つまり、恋人や妻は、相手がスケベであることを好ましく思わない。それは潜在的に浮気の可能性を示すことになるからだ。では、社会的地位がないか、恋人または妻がいなければ、スケベであることは問題ないだろうか?
 ここまでの議論で、問題があったことを認めなければならない。まずスケベな男性という定義が妥当かどうか。もし男性がすべからくスケベであるとしたら、どうだろうか? その場合、スケベな男性という定義は無意味である。まずは、男性がすべからくスケベであるという命題から出発し、その上で、男性のかかる属性が非難に値するか否かを考察すべきであった。
 男性のスケベさを考察する際、留意すべきことは、スケベのモード(態)である。スケベは潜勢態と現勢態に分けられる。男性は潜勢態として常にスケベであるという命題は真であるし、それ自体は何ら非難されることではない。なぜなら、まずその限りにおいて、他者に迷惑をかけないからである。また、スケベなこと自体に対しても当事者の責任を問うことはできない。なぜなら、それは男性自らが望んだことではないからだ。しかしながら、スケベが現勢態になるときは、TPOに応じて、男性は非難されることがあり得るし、そのことについては妥当だと考えている。
 同じ状況でも痴漢を犯す人もいれば、犯さない人もいる。犯した人はスケベの現勢態に移行し、犯さなかった人は潜勢態にとどまったのである。罰せられるのは前者であるが、両者ともスケベであることには変わりない。後者も特定の状況であれば、現勢態に移行するであろう。たとえば、誰からも監視されていない状況で、性的な好奇心を満足できる覗きができる状況を考えてみて欲しい。そこで潜勢態を保てるとすれば、その人は真に宗教的および/または倫理的な人であるとが考えられる。あるいは、もしそのいずれでもないとしたら、その人こそ変態=異常性欲の持ち主なのではないだろうか? ただし、この議論はあまり意味がない。なぜなら、そのような状況を想定することは不可能だからである。もし覗けるとしてもそれが罠ではないことを保証する審級はない。
 さて、話がそれたが、結論は以下のようになる。スケベであることは――TPOに応じて理性の力を動員して潜勢態に踏みとどまる限り――、何ら非難されることではない。