文学部で学ぶ意義

最近創設された大学にはまず文学部がない。このことは文学部がもはや必要ないと考えられているかのように思える。しかし、本当にそうだろうか。
ここでは文学部で文学を学ぶ意義について考えてみたい。
文学は、テキストにより人間の内面を深く探ることに主眼としている。また、文学の学習は、テキストを読むことを通じて行われる。ここで留意すべきことは、文学作品の読書が経済学や化学のテキストを読む行為とは質的に異なるということである。文学作品を読むことは、必ず著者と読者間の個人的体験になる。読者はテキストを通じて著者の内面に接する(ロシアの詩人ヨシフ・ブロツキーは、『私人』で読書体験を「相互厭人的」体験と言った)。これが文学を学ぶことの特徴である。社会科学や自然科学系の学問領域では、学説提唱者などが積極的に個人の内面を披瀝することは決してない。
よくある批判は、そのような文学体験が何の役に立つのか、というものだ。たとえば、英米文学の作品であれば、英語力の向上につながるし、またどの言語で書かれた文学作品でも、読解力や文章の作成能力の向上につながるだろう。しかし、それらは結果的なことである。それらは文学を学ぶことの積極的な目的ではない。
積極的な目的は、もちろん人により異なるだろうが、理想的には享受することである(つまり、それ自体が目的と言える)。しかし、大学で学ぶ以上は、社会に対して何かしらフィードバックを提供しなくてはならないのではないだろうか。それが、何の役に立つのかという問いで問われていることであるが、文学が積極的に何かの役に立つと答えることはできないと思う。だからといって、何の役にも立たないというわけでもない。ただ明確に何かの役に立つと言えないだけである。文学のテキストは、何らかの具体的な知識の伝達を目指しているわけではない。だから、文学を学んでも、教員を除き、専門的職業に就くのは難しいだろう。
しかし、文学は確実に生きる力になり得ると思う。それは文学で、絶望など負の側面も含めて、人間の感情の深みを体験できるからである。それにより、現実での絶望に多少とも免疫を与えてくれるのではないか。また、感情だけなく、思考の記録でもあるので、当然、思考力をつけるのにも役立つ(思考力の強化は、語彙の獲得および文章作成能力の向上とパラレルに達成される)。感情と思考力というだけでは具体性を欠くが、それらは人間の行動全般の動力である。よって、それらを陶冶することの重要性は明白である。
以上の側面から――文学が何の役に立つかという問いについて先に述べた意見を翻すが――、弁護士など人間の内面に深く踏み込む職業にとって文学の学習・体験は役に立つと思う。他学部の学生に副専攻として文学を学ぶという道があっても良いのではないだろうか。